昭和43年6月12日 朝の御理解
御理解第19節 「金光大神は形がのうなったら、来てくれというところへ行ってやる」
「生神金光大神は形がのうなったら来てくれというところへ行ってやる」と御理解下さってあります。生神金光大神のお取次ぎを頂いて、天地金乃神のおかげをうけられるようになったと仰せられますように、生神金光大神が助けてくださるというのではない。ね。生神金光大神のおかげで、天地金の神のおかげが受けられると仰るのですから、金光大神が形がなくなったら(?)ね御霊様としてまあいうなら、(?)氏子が金光大神とこうお取次ぎを願う、どこへでも行ってそこからお取次ぎをしてやるとこう仰る。金光大神が形がのうなったら来てくれというところへ行ってやると仰るのは、金光大神と言えばまあ、金光大神がおかげを下さるというのではない事を知らなければいけませんよね。おかげは天地金乃神が、の、くださるものであり、金光大神はどこまでもお取次ぎ下さるものである。その前の18節にこれはまあ、後半のところで良いのですけれども、まあ始めから読みますと「この方のことを神、神というが、この方ばかりではない。ここへ参っておる人々がみな神の氏子じゃ。生神とはここへ神が生まれるという事でこの方がおかげの受け始めである。みなもその通りにおかげが受けられる」皆もその通りおかげが受けられるというところ。ね。そこで、生神金光大神がお受けになられたご神徳というかね、おかげでもいおうかそのおかげがこの通りのおかげが受けられると仰せられる。ね。それも、金光大神のお取次ぎが頂けれるから頂けれるのである。
そこでここで、一つ分からなければならない事は、生神金光大神への本当に帰依がなからなければダメだという事。ね。帰依も必要でない、ただ金光様と唱えればというのではない。金光大神へおすがりさせてもらえば、ね、おかげが頂けれるという金光大神への、金光大神のご信心に対するところの帰依。ね。そこんところが、大事ですね。
昨夜の御理解の中にも、神も喜び金光大神も喜び氏子も喜びじゃという御理解がございますよね。金光様のご信心させてもらえればなかなか大変。神様にも喜んでもらわなならん。金光様にも喜んでもらわならん。それでいて、自分も喜べるようなおかげを頂かなならんのでから、普通の信心だったら自分がおかげさえ頂ければ良い。自分が喜べたらそれで良いというような感じなんですけれども、金光大神の信心は、お取次ぎの信心というのはやはり神様に喜んでもらわならん。勿論取次ぎの金光大神にも喜んでもらわなならん。そして、氏子も喜びじゃというような、そこんところをですね、その私共がその、神様にも喜んでもらわなならん、金光大神にも喜んでもらわならん。何もこう、何ていうでしょうかね、わずらわしいというかね。まあ例えていうならば、お配りもの一つするでもです、神様にもお配りせんならん、金光大神にもお配りせんんらん。本当に大事というものじゃない。ここには一つの一貫性というものがあってね、金光大神が本当に喜んで下さるおかげならばね、天地の親神様も喜んで下さるのだと。そうでしょうが。ね。ですから金光大神のお取次ぎを頂いて、神様が喜んで下さるような、金光大神が喜んで下さるようなおかげを頂いておられる例えば取次者というか、ここで言うならばなら親先生といわれるようなその人なのである。その人親先生が喜んで下さる事ならば金光大神も喜んでくださり天地の親神様も喜んで下さり、親先生も尚更喜んで下さり自分もなお又おかげが受けられると言う事になるのでしょ。ね。一つの本当に信心は誰も彼も喜んでもらわなならんと、大変まあ、まあいうならちょっとわずらわしい感じがするけれども、そうではない。親先生が喜んで頂けれる信心ならもう金光大神も天地の親神様も喜んで下さるのである。ただしここで分からなければならないのはね、私、ここで言うならば私ね、その人、いわゆる親先生、親先生の信心が金光大神にも又は天地の親神様にも通じていないようになったらこれはダメなのである。たとえばおかげをその人親先生が中で吸収、とってしまう。これではね、親先生も助からんだろう、親先生に喜んでもらうというその人も助からんのじゃ。これは昨夜の御理解です。ね。ね、ですからここではまあ、私がこれはまあ確信しておる事はね、どこまでも私の信心じゃない。ね。だからその人親先生とこういうわけなんです。大坪総一郎ではない。ね。その、その人親先生のお取次ぎと言う事は、ね、言葉を変えたら初代の荒巻弓次郎先生であり、石橋松次郎先生であり、吉木栄次郎先生であり、または桂松平先生であるという事なんです。
ねその、桂松平先生が四神様のご神命を頂かれて九州の地にお道を開かれた。四神様が教祖金光大神様の御後を、そのままにお継ぎになられたというところにもう一貫性がずっとあるわけなんです。ね。ですから四神様にも喜んでもらわなならん、教祖様にも喜んでもらわなならん。桂先生にも喜んでもらわなならん、と言う事ではないことをねそんなにわずらわしいものではない。それに、脈々してねまあ、済々騒然と、生きたものが生きてそこへ伝わっておると。ね。生きたものが生きてそこへ伝わってきておると皆さんが確信するならばもうそこでいいのである。
ただしそこで済々騒然がなされていないとするならば、ね、その人親先生のところへ桂先生の働きもあっとらん、荒巻弓次郎先生のお働きもあっていない、ね、と言う事はすでに金光大神のお働きも、もう希薄なもの薄いものになっておるというようなかんがもしあっておるとするならば、これは、考えなければならないですよね。
けれども自分たちが頂いておる親先生の信心はそうしたつながりというものをね、受けて受けて受け継いでおられるんだと皆さん確信するならその人親先生の信心を神習わしてもらいその親先生のお喜び頂けれる生き方信心になりさえすれば、おかげが受けられることが分かる。ね。そこで今日の19節ですね。「金光大神は形がのうなったら来てくれというところへ行ってやる」金光大神は形がのうなったらもうすでに合楽のお広前、御結界にね、ここに、ね、ご座ましまするんだということなんです。形こそその親先生であってもそこにはもう、生神金光大神の働きをすぐそこにあるんだということである。形がのうなったら、ね、生神金光大神のその御心霊というものがね、そこのお広前にお働きがあっておる。そんならその生神金光大神がおかげを下さるのではない、天地の親神様がおかげを下さる。いうならば金光大神の保証によって天地の親神様のおかげが受けられるのであるから、ね、生神金光大神がですよ誰でも彼でも信用しなさるはずがないでしょうが。ね。もうここに、高橋貞利さんというかたがあるから、親先生百万円貸してくださいと言われる、親先生がもっておるはずがないから、天地の親神様にお願いをしてあげる。けれども、高橋貞利だけには貸されん。ね。親先生その人が保証に立てこう言われる。けれども、私だって今度はなら高橋さんを信用してなかったら保証に立つごとなかでしょうが。ね。この人、この高橋さんなら100万円200万円でも私が保証に立とうと私が思うたところから初めて天地の親神様のおかげが受けられるのであるからいかに親先生と高橋貞利が交流しつながっておらなければならないか、信じ信じられる仲になっておかなければならないかが分かるでしょう。(?)親先生に参りよるのじゃなかもんじゃけん。お神様に参りよるとじゃけん。そういう事は金光様の御信心ではありえないことです。ここではないけれども、他所ではそのようなあるんですよ。先生がここにおったっちゃ、私達先生に(?)じゃなかけん、神様はちゃんとご承知だからとても神様に参りよるとじゃから、そういうことではおかげの受けられない一つの仕組みになっておる。金光様のご信心は。
どうしても生神金光大神の御取り次ぎというものがそこになからなければ天地の親神様のおかげを受けられないというものがお道の信心。ね。だからいきなりに金光様といやね、(?)そこに働き金光様が話を聞き下さってる、金光様がおかげを下さることは出来んのである。ですから、金光様のご信用、ご信用というものを頂かせてもろうての日頃の信心修行がなされておらなければいけないことがわかる。来てもろうただけじゃつまらん。ね。ですから、ここんところはまさかの時に天地金乃神と言うに及ばん、金光大神助けてくれといえばおかげをさずけてやると仰るのはね、金光大神が助けてくださるのではない、まさかのおりには金光様の金の字だけでもいいのである。ね。それは、いや金光様がもうすぐその場でお取り次ぎを下さる。日頃のその信心によって。私は今朝方こういうようなお夢を頂いた。どうも、十年、約30年も前の私のような感じである。それはどこか分からんけれども、私の(?)か分からんけれでども、泥棒が入っておる。私(?)をとって逃げよる。それを私も発見した、誰彼も発見したわけです。そこで、さああれが取って逃げよるからというて追いかけだした。私も追いかけるなら、その人も追いかける。私もその追いかけながら心で(?)。一人で追いかけよるのじゃないのですから。二人でその泥棒を追っていきよるわけなんです。はあー一生懸命追いかけてようやくその、その泥棒に追いついたわけです。ところがその、泥棒がですね開き直ったわけですね。開き直ったです。そしてその懐から短剣のようなものをだしてからですね、私共に向ってきたわけなんです。ところがその私と追いかけていったその(?)から、はーびっくりしてから追いかけて行ったもののすぐ走って逃げるわけですもん。こっちこそびっくりしてしもうてから(?)ほして二人とも逃げる逃げる、後ろから泥棒が追いかける追いかける、それこそ死にもの狂いになって逃げよるところのお夢だった。だらしのないことというたらこげな(?)(笑)ね。泥棒が追いかけていきよったんです。ね。そしてようやく追いついたところが泥棒に開き直られたらですね、(?)いうならば。( ? )ね。もう、合楽では皆さんが一生懸命泥棒の追求ではなくてもですね、一生懸命信心の追求をなさっておられるわけなんです。また追求しておらなければならないほどに日々のこのご理解がね、追及していかなければおられんのである。ね。いよいよ金光大神が天地金乃神からおかげを受けた事を話しにして残しておくのぞというその、話の深さ広さに只只もうおびえてしまうほどにその深さ広さに私共日々ただため息の出るばっかり。金光様の御信心の素晴らしさをいよいよ感じさせてもらう。ね。本気でいよいよそれを追求していくわけなんです。ね。ところがここにね、私は分からなければならない事はね、こうやって皆さんが追求しただけではいけない。その泥棒が開き直ってこちらを向いたときにです、そのもっておる物をこちらがまた取り返すという所、取り返すといえば可笑しい(?)その場合。ね。それを自分の物にするまでは度胸がいると言うことなんです。
ね。信心には度胸がいる。本当に30年前なら30年前の私だったらね、本当に自分が小心者であり度胸がなかった。(?)ないけれども、おかげを頂いて信心度胸だけはだんだん出来てきた。ね。信心度胸だけはおかげを頂いてどんどん腹が据わってきて私の先に怖いものなしというようなかんさえ段々出来てくるようになった。ね。怖いということもなからなければ、怖いというものもない。ね。怖いと思うておったのは本気で神様が力をつけて下さろうという働きであるということが分かった。困ったと思うておったことを困った事ではなくて、いよいよそれが神愛の現れであったという風に分かってきたらもう、私の前方、私の行くてには怖いということもなからなければ、怖いと思うような事はないことが分かってきた。怖いと思うておる事は自分の迷いが怖いと思うておるだけのことということが分かってきた。ね。いわゆる信心の度胸がそれによって育ってきたような感じである。
歌舞伎のお芝居の中に天神記というお芝居があります。天神様のお芝居がね。(?)大変有名なお芝居です。その、お芝居の中にですね、こういう台詞がありますね。「(梅?)は飛び桜はかえる世の中に。なにとてまつはすえ(?)」という台詞があります。「梅はとび桜はかえる世の中に。なにとてまつはすえ(?)」松雄丸、桜丸、仁王丸という三人の三つ子ですよね。3人兄弟が天神様に仕えておったのですけれどもある事情によりばらばらの主人を持つわけである。ね。ところが、桜丸は死んでしまう、仁王は飛んでしまう。遠隔地へ行ってしまう。ね。松雄丸は(?)の主人ではなくて、(?)のほうの家来になってしもうた。ね。そこで世俗の人の言う事には、「松はつれないつれないと」というような台詞になってくるわけなんである。松雄丸というのは恩義をしらん男だと。あれだけの御恩を受けらながらとというて世情の人は言うけれどもとこういうのである。
ところが実際のことはどういう風になるかというと、主人の子供さん達ですね、いわゆる(?)という立場にたった。いわゆる、自分の(?)いわゆる(?)息子さんの首を切って出さなければならない事になってくるわけです。松雄丸。ね。「今まで松はつれないつれない」といわれておったのが、(?)寺子屋の(?)ですよね。ところが実際はそうなったと表には見せかけてあって、実を言うたら自分の子供を犠牲にして、自分の子供の首を切って、自分の子供の首を相手に切らせてそれを(かんしゅうさい)と(?)出すわけである。そして、その(かんしゅうさい)を助けるという。敵やく敵やくと松雄丸は恩も義も知らぬ男だと。(?)その敵の所へ身を仕えをしておるということ。いや、しゅぜいの人は松はつれないとこういうたわけなんです。けれどもいよいよの時にはその場に立っておらなければ出来ない事をいわば敢然として成して遂げたわけなんです。いうなら自分を犠牲にしていわばかんしゅうさいを助けたというわけなんである。私共はね、まあいうなら、自分の子供まで切らんでよかけれどもね、やはり私はその位の度胸がなからなければならない。ここにいよいよ神様の道が立つという、いわゆるいよいよ自分というものを空しゅうしてもう、自分が助かることばっかり考えよる。ね。(?)であるならばこの店が立ちさえすればいい。お広前を中心にするならばです、自分の一家はどうであってもお広前がまず繁盛のおかげを頂けばね、そこに受けられるおかげはどういう(?)というと、ね、店さえ立てばよかと思うておったその店も立つなら、その従業員その人も立ち行くようになっていくのがお道の信心なんです。自分一家はどうでもいい。お広前がとにかく繁盛のおかげを頂けばと例えば自分を空しくしての修行がです、お広前を中心にした祈りになっていくならばです、お広前と一緒にその祈りをかけておるその人の一家も繁盛していくおかげになるそういう、いうならそういうシステムがある。信心には。そういう仕組みになっておる。だからそういう仕組みになっておるから、そういうのじゃなくて、そこに真心一途そのかんがです、人が何と言うても、松はつれないつれないというても、あれは馬鹿じゃなかろうかと言われてもです、いわゆる信心になれ、信心にならんと信心は出来ぬというのがそれなんです。ね。これが直ぐいと思うたら、これが本当だと思うたらそれをやり貫かせて頂くというのが信心。そこんところにです、私が夢の中に現れてくるところの度胸が必要だと。ただ教えを皆さん追及しただけではです、さあいよいよという時、ね、高橋さんこう言う事になっておるんだ、と言うときに高橋さんが尻ごみするならば丁度私は泥棒と言ってから(?)そこに度胸がいる。親先生、ご心配がいりません。(?)私が引き受けましたと、どっこいそういうようなですね、信心ができてこそ私は初めて教えを追及しておる値打ちがあると思うのです。
ね。いよいよのときになったら回れ右。いよいよの時になったらもう自分の(?)はあー忙しいございますんじゃから、(?)のことはわかっておりますけれども、というて回れ右をするような事では、いわゆるこげん滑稽きわまることはないです。せっかくの信心が分かり追求させて頂いたのにも関わらず、いよいよのときになっていうならばお試しに落第をしてから、またもとのところへ帰らなんならんというようなです、元のところへ帰らなんならんでもですね、(?)それはまた泥棒にね、追いかけて泥棒から追いかけられるなんてん、(?)。ね。お互い教えをいよいよ追及させてもらい、ね、追い求めていっておるのでございますから、それが本当に自分のものになるために稽古をしておる、その稽古がいよいよの時に(?)てくるというようなおかげを頂かなければならない。ね。そういう信心ができて初めてです、ね、私はいつでもどこででも生神金光大神と唱えるところに形がのうなったら来てくれというところに来てくださるだけではなくて、来てくださると同時にね、もう、あの氏子のためならば神様が金光大神がいつも保証人になってくださるというか、ね、いつでも天地金乃神のおかげはそこで受けられるというようなおかげになってくる。ね。我がよか時だけ金光様を使おうとする。生神金光大神、形がのうなったら来てくれというところに行ってやると仰せられ、来てもろうただけではつまらんのです。来てもろうたらそこで天地金乃神のおかげを取り次いでもらわなければ値打ちはないのです。そのためにはです、いわゆる神も喜び金光大神も喜びと言うことは、いわゆる金光大神の喜びで頂けれる信心の追求。金光大神が教えてくださるその御教えを本気で追及してしかもそれを自分のものにしていくところの精進をさせて頂いてこそいよいよのときに役にたつ。いよいよの時に度胸がすわる。ね。その度胸が私は信心度胸が必要だというのはそういう大変な大事なことになってくるのです。度胸ががなくて逃げればそれでよかろうばってんか、その逃げることの(?)おかげが受けられない。ね。お互い私共の行く手には怖いものなし、困ったと言う事があろうはずがない。そう思うておるのは迷いなのだ。その迷いであるという事を分かるためにも教えを追及しておかんと、それが、(?)たった安心というものが生まれてこない。いわゆる、いよいよの時に度胸が座らん。しっかり腹を決めて、度胸を据えての信心の追求でなからなければならない。それはその中間にはです、ね、本当に松はつれないつれないという事があってもね、高橋さんなんかは良くそういう感じがするですよね。お母さんが参って見える。もう、内の貞利は合楽合楽金光様ばっかりというて後は家のことはかまわんとですけん、まあ、悔やみ話をされる。それこそ、お母さんの顔よりもです、お母さんが(?)合楽をこう大事にされるところなんかは、まあいうなら定利はつれないつれないと言われておるようなものである。
ね。けれどもいよいよの時には定利がおってくれるから、あの人がおってくれるから親にも安心もしてもえる、喜んでもらえる、おかげが事実開けておれれるようなものではないでしょうか。ね。そういうおかげを頂きたいと思う。
どうぞ